革新の遺伝子を受け継ぐ 松仙べっ甲製作所
松本仙翠氏:
もともと墨田区立川で祖父が明治二十年に創業した松本仙太郎商店がはじまりです。眼鏡関係全般(双眼鏡、べっ甲フレーム)、レンズの製造、卸、小売りと幅広くやっていました。赤銅製のフレームをはじめて手がけたのもうちでした。東京大空襲の時に疎開して、現在の場所(千葉県市川市)に移ってきました。
そのころは父の松本茂が二代目を継いでいました。金物が主体だった眼鏡のフレームは、戦後セルロイドに移行し、工法はプレスで型抜きが一般的になっていました。父はプレスではなく生地を一枚一枚糸鋸で引く作品に特化していました。
父の作品は評判を呼び、国内外の有名人からオファーが殺到していました。歌手のレイ・チャールズは、来日時に六本も買い求めたそうで、当時の父親が作った図面なども残っています。眼科医を常駐させたのも父が最初でした。
――常に新しいことを取り入れて。
松本仙翠氏:
受け継いだのは技術より何より、そうした心構えかもしれません。私の代になってからは、新たな技法を考案しました。従来のべっ甲眼鏡フレームに象嵌や螺鈿の技法を取り入れたり、染色のカラーべっ甲の技法を使った製品を作っています。べっ甲の色にない彩色を染色する事で、いままでにないデザインでの作品づくりが可能になりました。イニシャルを模様として入れる技法など、他にはない技術、技法で創作する心構えで取り組んでいます。作品には『仙翠』の號を印し、細工を施した創作べっ甲フレームには工芸品鑑別書をつけています。
日中はもちろん、夜中にまで作業が及ぶこともありますし、いったん仕事に入ると、手が離せなくなります。長時間向き合うことになりますが、私の信条である“遊びの心”、創作作品には常にそうした心を忘れずにやっています。そうしてできた作品が皆様の心のゆとりになればと願っております。
父の姿に憧れて べっ甲の世界に挑む
松本仙翠氏:
父が有名人たちの眼鏡を作っているのを見て、子ども心に純粋な憧れを持ったのがそもそもの始まりです。高校生の頃までは、できあがった眼鏡を磨く手伝いもしていました。大学進学の予定でしたが、父親が倒れたことで働かざるを得なくなり、家業を継ぐことになりました。
やはり「旧態依然としていてはいけない、新しい技術を習得したい」という想いで、特殊な技術を持つメガネ生産地の福井へ修行にいきました。
修業期間は一年間と限られた期間でしたが、その間に習得しようと必死になって覚えました。たまの休みにも、兄弟子の知人をたよって、バイクで普通は見せてもらえない他の工場に見学に行ったりしていました。
その後、本格的に鼈甲の修行に6年。昼間働きながらそこで修行して、夜になると自分のところで働きました。昼間働いて習得した技術を、夜帰ってきてからすぐ試すことができるので、それは楽しかったですね。福井で習得した技術も取り入れました。機械の使い方にも独特な工夫が施されていましたが、そうした技術を作品づくり活かしていく。その連続で今に至ります。