「はじめ」から「あがり」まで 土直漆器店の責任と務め
――越前漆器の産地、鯖江・河和田にある工房にお邪魔しています。
土田直氏:
もともと私の家は、木炭業を営んでおりました。ここ河和田は冬場、雪深い山間にある集落で農業には向いておらず、男は山から得られる木材を利用して木炭や、漆器づくり、女は機織りで生計をたてると決まっていました。
「木炭業では、年の三分の一は仕事ができないから、年中働ける漆器にしよう」。私は15歳で、この世界に入りましたが、この地で生活していく者の、自然の成り行きからでした。親方に弟子入りして、数年間の丁稚奉公。一年間の御礼奉公を経て、越前漆器の塗り師として、独立しました。
越前漆器は、素地、下地、塗り、蒔絵と工程ごとに分業制となっていましたが、「最初から最後まで品質を管理して、すべてに責任を持ちたい」と、昭和54年、一貫した制作体制を持つ、株式会社土直漆器を開業しました。塗り師として越前漆器に携わって50年以上、世の中の流れも生活様式も随分と変化しましたが、私も会社も、時代とともに成長させていただきました。
土田直東氏:
私は、生まれも育ちもここ河和田で、高校まで野球三昧の生活でした。高校卒業と同時に、家業を継ぐ選択肢もあったのですが、もう少しいろいろな世界を覗いてみたいと、東京で大学生活を送っていました。
専修大学の経営学部に進んだのですが、勉強よりも社会勉強としてのアルバイトに夢中でしたね。大学3年のころにはじめた、大手レコード店でのアルバイトを、卒業後はそのまま契約社員という形で、しばらく働いていました。バイヤーとして、仕入れも担当していたのですが、当時は音楽CDの売れ行きも好調で、渋谷と言う場所柄、最先端の移り変わりをレコード店の店員として感じることができました。
世の中の声を聴く 「目利き」がカギとなるものづくり
土田直東氏:
親と交した約束の年もとうに過ぎ、ある程度やりきったところで、東京からこちらに戻り、家業に携わることになりました。幼いころに、現場は見ていましたが、本格的に漆器づくりに関わるのはこの時がはじめてで、当時は、とにかく追いつかなければと、焦っていました。
「ヘラも作れなければ、一人前になれない」ということで、最初は、漆器づくりの基礎である下地の、さらに前段階の「道具づくり」からはじまりました。ヘラを作るためには、小刀で削らなければいけないのですが、その小刀もまともに扱えなかったので、最初はひたすら刃を研いでいました。
――まずは道具と仲良く。
土田直東氏:
道具と仲良くなり、少しでも早く漆器づくりを手がけるようにならなければと、必死でしたね。バイヤーのころは、誰かが作った「既にある」商品を目利きで売るのが仕事でしたが、今度はそれをイチから作ると言うことで、いろいろと戸惑いもありました。
特に最初のころは、作りたいものと、自分の技術が追いつかず、またそれをどのようにお客様に見ていただき、届ければ良いのかといったこともわからず、苦労しました。多くの失敗を繰り返しながら、会長(父)にも先輩にも手取り足取り、時には怒られながら学んでいきました。
少しずつ、塗りも下塗りから中塗り、上塗り本塗りと工程を覚え、学んでいきました。今もそうですが、うちの特色のひとつが、教育体制で、早く上達できるのが一番と、ベテランの人もきっちり教えてくれます。そうやって学んで、徐々に漆器づくりを体に覚えさせていきました。今、私の役割は、会社の仲間たちが一所懸命作ったものを届けていくことで、作り手として四六時中現場にいることは叶いませんが、それでも暇さえあれば塗っています。
ここ5年、10年の間にお客様の好みも随分変化してきました。要望に合わせて最適のものを提供するのは、バイヤー時代に培った「世の中の声を聴く」経験が活きています。