逆境からの一手
伝統の技を現代に活かす
――身近な日用品に、伝統的な加賀友禅の技法を活かされた作品づくりをされています。
太田正伸氏:
私が独立して友禅工房「文庵」を開いたのが平成9年。当時、着物の売れ行きが伸び悩み、加賀友禅の業界全体が不況に向かっていく時代でした。問屋さんからの仕事も少なく、自分で何とかしなければという状況だったのです。
「まずは自分を知ってもらわなければ」と、展覧会の作品作りからはじめました。展覧会などで入選することにより知名度が上がると思ったからです。展覧会の作品作りを中心に問屋の仕事もこなしていく毎日でした。展覧会も入選を重ね、問屋の仕事でも販売会に出るようになり独立後10年が過ぎた頃、着物以外にも加賀友禅をアピールする物があるのでは?と考えるようになり「名刺入れ」や「染め絵」など制作してみました。そんな活動を続けていくうちに、同じような想いを持つ伝統工芸の仲間に出会い、互いに情報交換、グループ展、勉強会など行う中で、加賀友禅のスニーカーやライダースジャケットは生まれました。
伝統は一点で止まっているものではなく、常に進化していくものだと考えています。ただ、こうした考えに至るまでには、多くの寄り道と試行錯誤、そして師匠、先輩、友人、周りの支えがありました。
「すべてにアンテナを張れ」「やり方を貫け」
厳しく見守ってくれた師匠との出会い
太田正伸氏:
私は教師をしていた両親のもと、能登で生まれました。父が美術の教師だったため、自宅には絵の具や画用紙といった道具がたくさんあり、小さいころから慣れ親しみ、暇さえあれば絵を描いて過ごしていました。そのまま高校でも美術部で活動し、大学は美術学科のある地元、金城大学の日本画コースに進みました。
将来は日本画家になろうと考えていましたが、絵だけで生活していくのは厳しいと思い、父と同じように美術の教員免許も取得しました。卒業の頃、日本画の先生自身が経営していたデザイン事務所にスカウトされ「まずはデザイナーとして稼いで、そこから日本画家への足がかりを」と・・・。まだ確固たる目標も持っていなかった私は、誘われるがままそこへ就職することにしました。
――絵を描きながら仕事が出来る。
太田正伸氏:
……将来は日本画家、と思っていたのですが実際は絵を描く余裕もなく、帰宅は深夜から翌朝と、文字通り四六時中働いていました。一ヶ月以上、家に帰れず、車の中で仮眠したこともありました。「仕事が遅ければ、そのぶん何倍か努力すればいい。」そういうハードな精神論の下で鍛えられましたね(笑)。もう本当に、社長というよりは師匠と言った感じでした。
仕事中に師匠が煙草を吸い出すと、灰皿はもちろん、絶妙なタイミングでお茶を出したり、泊りの時は、風呂にも入らせてもらうのですが「一番風呂は体に悪いからと弟子が先に入り、上がる時は風呂に入っていないかのように綺麗に」といったような風呂の入り方の掟もあったり……、そこで常にアンテナを張りめぐらし、色々なことを注意深く観察することを教わりました。そのときのことは今でもはっきりと覚えていますよ(笑)。
また、39度の熱が出て、そのうち声が出なくなり早退しようと願い出たのですが「酒を飲めば何とかなる」の師匠の一言で乗り切った事もありました。若さゆえ出来た事でしょうね。これも、ひとつの修業と捉え頑張っていましたが、仕事中に突然、鼻血が止まらなくなり病院へ。とうとう体を壊してしまい1年半くらいで実家に戻ることを余儀なくされました。これが最初の師匠との出会いです。
しばらく実家で静養していましたが、狭い田舎ですから若いモン(若者)が昼日向からいると、すぐ評判がたちます。居づらい雰囲気と体調も良くなってきた事もあり、金沢に戻り気分転換に友人の加賀友禅工房へ遊びに行きました。その折に友禅作家の白坂幸蔵先生に知遇を得ました。はじめのうちは弟子入りなど認めてもらえませんでしたが、粘り強く話をしているうちに、先生の奥様の後押しもあり、なんとか弟子入りの許しが出ました。
工房では普段、朝8時の掃除から始まり、夕方5時には終わりました。仕事は、師匠の着物作りのお手伝い。徐々に彩色(色塗り)の技術など友禅のノウハウを覚えていきました。はじめは明るいうちに帰れる事、絵を描きながらお金がもらえる事、その内に目の前できれいな着物ができていくことなど、今までとは違う生活に喜びと感動を覚え、気がつけば11年が経っていました。
――新たな場で、再出発の道を歩みます。
太田正伸氏:
白坂先生の元で学んだ11年は、あっという間でしたが、折りに触れて思い出す事があります。一生懸命やっているにも関わらず、認められないことに焦りを感じた時には「あんたはいいと思っているか知らんけども、その要望がないのは誰もほしがらないからだ」と厳しいご意見を頂いたり、一方で「なんでや、と悩まずに、あんたのやり方を続けていればいい。いずれ必ずそういうものが形になる」と励ましたりもしてくれました。