時代の波を乗越えて
吉田長四郎氏:
小さいころから父の仕事の手伝いをしていました。学校の先生と父との間に連絡帳があり、下校時間まで記されていましたので、道草も出来ず学校から帰ってすぐ手伝っていましたね。中学卒業後すぐに、家業を継いで仕事を始めました。
ただその頃は、お膳からテーブルへと生活環境の変化に伴って、作るものも変化していました。木地師の仕事がなくなってしまったので、木箱を作ることになりました。当時木箱は「粗箱(あらばこ)」と呼ばれるぐらいのもので、いまでいう「段ボール」の前身で、鉋(かんな)もかけず杉材をひきっぱなしにしたものでした。
また、越中富山の薬箱の桐の引き出し箱も手がけていました。北陸線に乗って、見本を持って営業に出掛けたのは20歳のころだったでしょうか。置き薬の保管に優れていると評判になり、それまで紙袋だったものが、うちの桐箱に変わりました。ここにその当時のものがあります。
――素敵ですね。この手書きのものは……。
吉田長四郎氏:
これは注文書が入った封筒で、当時FAXなんていうものはなく、すべて手紙でやり取りしていました。富山を代表する製薬会社、「ムヒ」を製造する池田模範堂さんのものもあります。しかしその後、プラスチック商品に取って代わられて、私たちはまた新しいものを作らなければならなくなりました。
さくらんぼなどの贈答用の桐箱を作るようになったのは、お客様からの要望を受けてのものでした。鋳物用の箱や米沢織の箱など、ありとあらゆる箱を手がけてきました。
吉田長芳氏:
私は小さい頃から、父ではなく祖父である長助から「お前は跡継ぎだ」と言われ続けていました。祖父から父へと受け継いできたものを、自分の代で無くすのももったいないと思いあとを継ぎました。
家にはない技術を身につけるため、日本でも有数の木箱生産の技術を持つ京都に修行にでていました。残業の毎日で、年末は夜の0時が定時と、決して楽ではありませんでしたが、「石の上にも3年」と思ってやりました。結局なかなか辞めることは出来ず、5年やりましたがその間、色んなことを学ばせて頂きました。無事つとめ上げた記念に買ったサザンカの木は、今、庭にあって毎年雪が降る時期になると綺麗な花を咲かせています。
――そこからようやく家業に……。
吉田長四郎氏:
ところが、息子が帰ってきたころには仕事がなくなっていました。次に手がけることになった桐の照明器具でまた3年間修業。しかし、その仕事もなくなって……。残ったのは借金だけ。この時期は本当に辛いものでした。
吉田長芳氏:
バブル崩壊にともない仕事が激減したことで「もうダメだ、別の仕事をしよう」と思ったことは何度もありましたが、「この仕事しかないんだ」と、腹をくくっていたことが支えになりました。この商売でやっていけるというふうに思えるようになったのは、ここ最近になってからです。