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よしだの美学 こだわりの桐箱づくり

今回のお相手

山形市の伝統工芸品である山形桐箱や木箱を製造して80年以上になる有限会社よしだ。先代から続く「正直なものづくり」の精神は、材料から仕上げに至るまで徹底され、日々丁寧な品物を作り続けています。二代目の吉田長四郎さんと、代表を務める三代目の吉田長芳さんに、受け継がれる「よしだ」の仕事哲学を、その歩みとともに伺ってきました。

作品一覧

「美味しい田んぼ」の桐米びつ

さくらんぼの桐箱


時代の波を乗越えて



吉田長四郎氏:
小さいころから父の仕事の手伝いをしていました。学校の先生と父との間に連絡帳があり、下校時間まで記されていましたので、道草も出来ず学校から帰ってすぐ手伝っていましたね。中学卒業後すぐに、家業を継いで仕事を始めました。

ただその頃は、お膳からテーブルへと生活環境の変化に伴って、作るものも変化していました。木地師の仕事がなくなってしまったので、木箱を作ることになりました。当時木箱は「粗箱(あらばこ)」と呼ばれるぐらいのもので、いまでいう「段ボール」の前身で、鉋(かんな)もかけず杉材をひきっぱなしにしたものでした。

また、越中富山の薬箱の桐の引き出し箱も手がけていました。北陸線に乗って、見本を持って営業に出掛けたのは20歳のころだったでしょうか。置き薬の保管に優れていると評判になり、それまで紙袋だったものが、うちの桐箱に変わりました。ここにその当時のものがあります。

――素敵ですね。この手書きのものは……。 



吉田長四郎氏:
これは注文書が入った封筒で、当時FAXなんていうものはなく、すべて手紙でやり取りしていました。富山を代表する製薬会社、「ムヒ」を製造する池田模範堂さんのものもあります。しかしその後、プラスチック商品に取って代わられて、私たちはまた新しいものを作らなければならなくなりました。

さくらんぼなどの贈答用の桐箱を作るようになったのは、お客様からの要望を受けてのものでした。鋳物用の箱や米沢織の箱など、ありとあらゆる箱を手がけてきました。



吉田長芳氏:
私は小さい頃から、父ではなく祖父である長助から「お前は跡継ぎだ」と言われ続けていました。祖父から父へと受け継いできたものを、自分の代で無くすのももったいないと思いあとを継ぎました。

家にはない技術を身につけるため、日本でも有数の木箱生産の技術を持つ京都に修行にでていました。残業の毎日で、年末は夜の0時が定時と、決して楽ではありませんでしたが、「石の上にも3年」と思ってやりました。結局なかなか辞めることは出来ず、5年やりましたがその間、色んなことを学ばせて頂きました。無事つとめ上げた記念に買ったサザンカの木は、今、庭にあって毎年雪が降る時期になると綺麗な花を咲かせています。



――そこからようやく家業に……。



吉田長四郎氏:
ところが、息子が帰ってきたころには仕事がなくなっていました。次に手がけることになった桐の照明器具でまた3年間修業。しかし、その仕事もなくなって……。残ったのは借金だけ。この時期は本当に辛いものでした。

吉田長芳氏:
バブル崩壊にともない仕事が激減したことで「もうダメだ、別の仕事をしよう」と思ったことは何度もありましたが、「この仕事しかないんだ」と、腹をくくっていたことが支えになりました。この商売でやっていけるというふうに思えるようになったのは、ここ最近になってからです。

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