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伝統を現代の文脈で進化させる 親子二代「かけ算」のものづくり

今回のお相手

「伝統を現代の文脈で進化させる」――木曽漆器の伝統を受け継ぎつつ、現代に合わせた新感覚のものづくりを手がける丸嘉小坂漆器店。同店を率いるのが、二代目小坂康人さん(伝統工芸士・塗師)と、木工職人である三代目の小坂玲央さん。木曽平沢の地で70年、山間の小さな工房で作られ続けた製品は、新旧親子二代の「かけ算」によって、イタリア・ミラノをはじめ、世界に向け発信するものづくりへと変化していきました。それぞれの木曽漆器への向き合い方を辿りながら、木曽から世界へ飛び出す挑戦の軌跡、未来にかける想いを伺ってきました。

作品一覧

woodpia リラックスチェア・オットマン

すいとうよ

すいとうよ Eワイン

すいとうよ カクテル 紫

百式 彩雲 盃・大

百式 螺旋 タンブラー 白パール

百式 蕾 盃・線

百式 葉輪 プレート 黒朱

木曽漆器の産地に根ざして70年
丸嘉小坂漆器店の挑戦



――素敵な工房にお邪魔しています。



小坂康人(二代目)氏:
丸嘉小坂漆器店は、木曽漆器の産地であるここ木曽平沢(長野県塩尻市)で、家族と4人の職人さんで営む小さな工房です。ここは昔から、中山道の宿場町である贄川宿と奈良井宿の間に位置し間の宿(あいのしゅく)と呼ばれるところで、ふたつの宿場町の需要を満たした漆塗りの産地として栄えてきました。もともと、木曽漆器の上塗師であった初代・嘉男が本家から分家し、1945年に創業したのが始まりです。「丸嘉」の名前は、その初代が由来です。

工房のあるこの建物は、継ぐはずではなかった息子玲央が、同じ仕事をすることになって、建て直したものです。当時、業界は衰退の一途を辿っていましたから、私は正直、自分の代で終わりだと思っていました。ところが、息子の意思に影響され、もう一度挑戦してみようという気持ちが涌き起こり、業務拡大を念頭に建てたもので、私たちの挑戦への決意でもあります。

小坂玲央(三代目)氏:
ここで新旧互いに意見を出し合いながら、ガラスに漆を塗った「すいとうよ」や、色鮮やかな「百色」(ひゃくしき)などの新しい作品や、「woodpia」という健康家具ブランドが生まれていきました。今ではイタリア・ミラノで開催されたコレクションにコラボレーションの形で参加したり、全国各地の百貨店での展示会、東京ビッグサイトでの催し物などにも顔を出したりと、そうやって小さな町から外に出かけては日々動き回っています。



「9ヶ月間仕事なし」
逆境から生まれた新しい取り組み



小坂康人氏:
私がこの世界に入ったのは、家業を継ぐという当たり前の成り行き、流れからでした。家のすぐ隣が工房で、小さいころからずっと初代の仕事を見て育ちました。高校生のころは漆器の需要も高く、学校が休みの日には、私も仕事を手伝っていましたね。継ぐのが当然で、むしろ「迷い」は仕事を始めてから生じました。

初代が58歳のとき、脳血栓で倒れ、いよいよ私が二代目として工房を引き継がなければならなくなりました。いつかはそういう日がやってくるだろうと思っていましたが、それまでしっかりやってくれていた父に、どこか安心していたのかもしれません。突然のことに驚きましたが、とにかくしっかりしなければと腹をくくって、二代目として受け継ぎました。



ところが、引き継いで数年もしないうちに、漆器を取り巻く環境が変化し、9カ月もの間、まったく仕事が入ってこなくなりました。何もしないわけにはいかないので日曜以外は作業をしていたのですが、夫婦ふたり、たまの休みの日曜日に気晴らしにと出かけても、外食のラーメン一杯が食べられないくらい苦しい時期でした。

「辞めよう」「辞められない」の瀬戸際を行き来していたところ、漆器の外商をやっていた義理の父が、新しい仕事を持ってきてくれました。それまで、沈金、蒔絵、呂色塗りなどを専門にやっていましたが、新しい塗りの仕事は、業務用の要素が強いもので、まったくの未経験でした。しかし、それ以外に仕事もないので、とにかく必死になって新しい技法を習得することに。旅館やホテルなど、依頼された仕事はすべて断らずに受け、そうやって徐々に生きを吹き返してきました。事業をやっている以上、浮き沈みは当然ありますが、さすがに9カ月仕事なしというのはこたえました。30歳手前のころです。

猛反対を押し切って漆器の世界へ
親子二代のものづくりの始まり



小坂玲央氏:
そうした「両親ともに忙しく働く姿」を見て、私は育ちました。小さいころは、しょっちゅう仕事場に出入りして木のコマを使って研いだり、塗ったりと仕事の真似ごとをしていたようです。

――玲央さんも、必然的にこの世界に入ろうと?



小坂玲央氏:
私はもともと、医療福祉に興味があり、その分野の大学を卒業し、病院の医療事務の仕事に携わっていました。

小坂康人氏:
私の時は選択肢がなく、せめて息子には自由になって欲しいという気持ちがあったので、「自分の好きなことをやれ」と言っていました。

――自由に進んだ結果、「継ぐ」ことを選ばれたのは。



小坂玲央氏:
身近な当たり前だった父の仕事を、自分が一度外で仕事をすることで、客観的に見られるようになりました。周りから父の評価を聞く機会が増え、当時開いていた個展に足を運ぶうちに、だんだんと木曽漆器に対する価値観や見え方が自分の中で変化していきました。単純に「かっこいい」と憧れを覚えたのです。そして「漆芸作家になりたい」と思うに至りました。



小坂康人氏:
私は、業界が担い手も年々少なくなり将来性は厳しいという状況を知っていたので、当初は反対していました。それに、職人であった私からすれば、息子は想像もできないような初任給、お給料を頂いていたものですから、そんな素晴らしいところをふいにしてまで戻ってくることはないと考えていたのです。

ところが、猛反対する私に同じく塗り師であった妻が、「やりたいものをやらせないで後悔させるか、やらせて後悔させるか、あなたはどっちを選ぶの」と詰め寄られ、「自由にしろ」と言い続けていた手前もあり、この道に進むことを納得しました。


親×子のかけ算が生み出した新製品
「すいとうよ」「百色」



小坂康人氏:
丸嘉小坂漆器店はもともと塗りだけの会社でしたが、将来、産地という形がなくなることを危惧していたので、やるからには木地から一貫して手がけなければならないと考えていました。全部やらなければ生き残れないだろうと。

小坂玲央氏:
それは私も同じで、一般的に、漆器というのは分業で、どこかひとつの作業に特化していれば良かったのですが、一貫して形を作っていくためには、イチから木工を勉強しなければと思っていました。もちろん漆芸作家を目指していたこともありますが、将来的に工房の仕事としても、家具や椅子など幅を広げていきたいと考えていたのです。

――畑違いからの修行はいかがでしたか。



小坂玲央氏:
当時の私は、「現場で仕事を覚える」という感覚がなく、学校で学べるものだと思っていました。すぐにそれが間違いということに気がつき、専門学校を卒業後はすぐに外部の、現場での修業に挑みました。手取り足取りというわけにはもちろんいかず、その中で「盗む」形で覚えてきました。教わるのはもちろん大切なことですが、最終的には掴むものだと思っています。

勤めている時はミッションやタスクをこなすのが仕事で、私もそれなりに社会人としての自負もあったのですが、目標や仕事内容もみずから作り出していかなくてはならないことに、戸惑いや大変さを覚えました。ただそれ以上に感じたのは、形にする充実感でした。不安も不満もありましたが、その充実感が私を前へと進めてくれました。

小坂康人氏:
その間、私は改めて大きく踏み出す気持ちで、工場を新設し、新規の事業を始める準備を着々と始めていました。「今の規模では将来性がない」、木工所もいるし、そのための材木を保管する広いスペースも必要になる。店舗も、事務所もいる。新たな挑戦の始まりでした。

――そうして、さまざまな製品が生まれてきました。



小坂康人氏:
「鏡面仕上げされた漆テーブルでは、傷が目立つので硝子を敷きたい」というお客様の声が、「すいとうよ」の開発の出発点でした。漆テーブルにガラスを敷いてしまえば、漆の持っている本来の温かさや肌触りを感じることができなくなります。そんなことをするくらいなら、いっそ硝子に漆を塗ったらどうだという発想が生まれたのです。

ただ、硝子にそのまま漆を塗れば剥げてしまうことは、誰でも知っています。試行錯誤のうえ、すり硝子に塗ればいけるのではというところまでいきましたが、結局半年くらい経つとはげてしまう。それで忙しさにかまけて、いったん、中断していたのですが、5~6年が経ちバブルがはじけ、やがて木曽漆器業界もかつてない不況に陥り、「何か打開策を」と考えていた時、思い出したのが、硝子に漆を塗る試みでした。

工業試験場に相談する中で、ようやく漆が剥がれない硝子製品を完成させることができました。透明感を表す「透き」と、異なる素材が「好いて」一緒になる様を、ガラス伝来の地、長崎のお国言葉を使って「すいとうよ」と名付けました。



小坂玲央氏:
「hyakushiki(百色)」は、かつて“百色眼鏡”と言われた万華鏡を思わせるような個性あふれる色の漆を硝子に纏わせた器ですが、「すいとうよ」からより幅広い料理を楽しんでもらえる、耐久性を高めた漆硝子を目指して生み出された製品でした。こちらは「美しく、誠実に、ドキドキさせる漆硝子」をコンセプトに、4年の試行錯誤を重ね、2013年に誕生しました。

伝統を現代の文脈で進化させる
「役に立つ」ものづくり



――伝統の地で、新しい分野を開拓されています。



小坂康人氏:
木曽では毎年新作展も開催されており、何かに縛られるという産地ではありませんでした。土地柄、この地域がいろいろな産地のものが出入りする交差点であったことが、新しいものを許容する文化を作ったのかもしれません。

生活環境が変化していく中で、昔ながらの道具をそのまま受け継いで頑なに守っているだけでは、結果として残したかった技術も廃れ、継承されなくなります。現代の生活環境に適応させて新しいものを生み出してくことは、ものづくりにおいて必然だと思います。

――「変わる」ことで受け継いでいける。



小坂玲央氏:
過去のさまざまな伝統工芸もその時代に合わせて変化しています。もちろん伝統的な部分にも愛着を感じていますから、漆硝子をして、「これが木曽漆器だ」というつもりは毛頭なく、あくまで木曽漆器全体の魅力を伝える手段として考えています。

小坂康人氏:
漆は何千年も昔の人が発見した接着剤であり、塗料であり、現代まで残ってきた塗料です。技法としても何千、何万通りあると言われており、まったく同じものはありませんし、そのおかげでなんでもできる、とも言えます。器だけでなく、「漆」という表現で捉えると、家具、わっぱ、建築材料と至るところに使うことができる無限の材料です。想像力次第でなんでもできる。そういうところが作り手が感じる漆の魅力であり、面白さだと思います。

ものづくりにおける一番の喜びは、それを使ってくださる方がいるということ。そうしたみなさんの生活の役に立つものをと、考えています。基本に忠実に。人にも環境にも優しいものを。そのうえで、次の世代がやりやすい方向にやっていったらいいと思います。これからは私のほうが手伝う番だと思っています。

小坂玲央氏:
私はとにかく誠実に作るということ。モノだけなら安く百円で手に入る時代に、プロとして作り、届ける意味。その価値をお届けしたいし、そうしなければいけないと思っています。そのためにできることを惜しみたくありません。

それはウェブサイトも同じで、やはり人に魅力を感じてもらうところが出発点ですから、「なにか綺麗だな」とか「木曽漆器ってカッコいいんだな」と思っていただけるようなデザインを心がけています。私たちは産地があるからこそ、ここで仕事ができています。漆硝子を足掛かりとして、これからも日本中に、世界に木曽漆器全体の魅力を伝えられるものづくりを、「かっこよく」発信し続けて参りたいと思います。

(取材・文 沖中幸太郎)

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