木を知ることから始まる「心」のものづくり
――作業場にお邪魔しています。
吉田功氏:
吉田木芸は、同じく伝統工芸士である長男京司と、家内の三人で切り盛りしています。先代の頃から、すべて自前でできる一貫体制を敷いていましたので、ここですべての工程を賄えるようになっています。丸太を買い付ける段階から、製造、加工、納品まで、今すべてを自前でできるところは、京都ではここだけじゃないかな。
最近は、材料もなかなか手に入りにくくなって……。近隣の県に出向いて購入しています。やはり、丸太を選ぶとこから保管しておく段階まで、どうしても自前でやりたくなるんですね。湿度の違いひとつで、品物の出来やその後の「持ち」に左右しますので。うちのように小さなところは、10年先まで考えて仕入れないといけないのでなかなか大変ですが、これだけはゆずれません。
今の場所に移って、30年くらいでしょうか。狭いですが愛着のある道具に囲まれています。奥の作業場にある糸鋸も、機械ではなく道具みたいなものです。道具には、機械のような画一性がない代わりに、作り手の心が反映されます。こうした愛着のある道具と、こだわりの材料で、長く使えるものを作らせてもらっています。
——その「心」を作品だけでなく、教室を通しても伝えられています。
吉田功氏:
これも私に代替わりする前から開いておりまして、やはりどれだけいいものをつくっても、それを愛してくれる人がいなければ始まりませんから。それで「知りたい、つくってみたい」という人に、最初は自宅で、それから後に、地元京都の百貨店さんや京都市や国の伝統産業施設(「京都伝統産業会館」で京都市主催の“市民工芸教室”や「伝統的工芸品産業振興協会」で同協会主催の“工芸教室”など)で、教室を開いていたんです。昭和63年(1988年)からは、東京でも教室を開いています。もう30年になりますね。
教室では、本職でやることと同じことを同じ道具を使ってお教えしています。いずれ本職と同じものができるように、技術もすべてお伝えしています。そして技術は、やれば身に付いていきますが、その前段階である、「心」についてもお伝えしているつもりです。やはり心がないと、良いものづくりはできないと思っていますから。
私ももともとは、素人です。そもそも私はサラリーマンでしたから。この世界に入ったばかりの頃につくったものは、お世辞にも「ようできた」とは言えない代物でした。けれど、少しずつ、心を込めていけば技術は自然と上達する(もちろん勉強は大切です)。そういうものだと思っています。この仕事に限らずですが、大切なことはとてもシンプルだと思いますよ。
サラリーマンから職人へ
吉田功氏:
私の前職は、旅行会社です。大学のころより“将来は旅にかかわる仕事をしたいな”と思っていたところ、ちょうど昭和39年入社の4月に日本人の海外観光渡航が自由化になりまして、5年ほど法人営業や添乗員として海外旅行事業部に勤めておりました。添乗員仕事とは言え、その頃にいろんな国に行け見聞出来たことは、今の仕事にも大変役に立っていますね。
ちょうど東京オリンピックが開催され、その後に続く大阪万博を控えて盛り上がっていた頃でもあり、日本が右肩上がりの時代でした。職人の世界も、その恩恵を受け、仕事はたくさんありました。けれど、父の代はそんなことはなくて、いろいろな意味で、職人は厳しい仕事でした。ですから、父に「仕事を継げ」と言われたことは、小さい頃から一度もありませんでしたね。
そうしたこともあって、高校時代は陸上の短距離選手として大会に出ていまして、そのまま社会人チームに入る予定だったんです。ところが、練習中に足を悪くしまして、選手として生きていく道は断念。高3の秋口なってから猛勉強して、なんとか立命館大学に進みました。冗談ですが、あの頃は「結婚するなら京大生、ボーイフレンドを持つなら同大生、用心棒なら立っちゃん(立命館)」って、言われていましてね(笑)。今とは大違いです。
――「立っちゃん時代」は、どんなことをして過ごされていたのでしょう(笑)。
吉田功氏:
何をしていたんでしょうか(笑)。旅ばかりしていましたね。その頃は、大学生も学生帽を被っていましたから、それを被っていると、旅先で皆さん親切にしてくれるんです。そんな体験をしたものですから、「旅ってええな」と。時代の流れもあり、旅や海外への想いはますます募り、それで卒業後に、旅行代理店に就職することになったんです。