京薩摩を現在に蘇らせる職人工房
「空女 cu-nyo 」の現場から
――色彩豊かな「京薩摩」を手がけられています。
小野多美枝氏:
ここでは私と、四人の絵師と一緒に、京薩摩の絵付けを中心に作品を手がけています。京薩摩とは、薩摩焼をルーツに、明治から昭和初期にかけて、おもにヨーロッパへの輸出用の陶器として京都で作られていたもので、京の華やかさと、主に輸出品用で国内流通しなかったことを評して「幻の器」とも呼ばれている陶器です。それらを現代に蘇らせるのが、私たちの工房「空女」です。ここにいる絵師たちは、もともとの私の教え子なのですが、今では師弟関係を超えて、それぞれが専門を極める職人集団として製作に取り組んでいます。
元々は私ひとりでやっていた「空女」ですが、あえて会社組織にしたのは、昔の伝統工芸の在り方の再現でもあって、私たちが手がけている「京薩摩」も、文献によれば、昔は絵付けひとつとっても分業制が徹底されていました。紋を描く人、花を描く人……。それぞれのスペシャリストがひとつの作品を仕上げれば、どこにも負けないいいものができるとも思いました。
また、私がいなくなった後も「場」を作っておくことで、技術は継承されていくとも考えました。伝統工芸は一過性のものではなく、「続けていく」ことこそが重要で、そのために最適なのが工房という形だったのです。
――伝統を継承するための、工房。
小野多美枝氏:
昔から京都では絵付けは、窯元に付随した一部門としての存在だったので、絵付け専業の工房や職人の収入は低く、業界で働く若い女の子の給料が少ないのは当たり前という状況でした。私が「空女」を組織にしたのも、伝統工芸に携わる彼女たちにも普通のOLくらいの暮らしができるようにしてあげたかったからです。ここでは、しっかりした技量を身につけ、きちんとしたものづくりをすれば普通に収入を得ることができるということを示したいと思っています。
伝統工芸という仕事を、普通のものにしたいのです。自分が惹かれた伝統工芸の世界を魅力的に「魅せたい」というのは、私のひとつの大きなテーマでもあります。継承問題は、ここ京都も例外ではありませんが、この仕事に憧れを持つ人がいなければ、どんなに素晴らしい作品を作ったとしても、いずれは消えてしまいます。そもそも京薩摩も、昭和初期にいつの間にか消え、埋もれてしまっていたもので、私はそんな「京薩摩」に魅せられて、ここにいるのです。
「日本一」を目指し、自分の居場所を探し続けた
小野多美枝氏:
小さい頃から絵を描くことが好きな子どもだったようで、漫画家に憧れを持った時期もあります。小、中、高校と陶器や伝統工芸とは無縁の世界で生きていました。私が小学生のころに東京オリンピックが開催されたのですが、そうした影響もあってか、小学生ぐらいの時から「日本一」という言葉が好きで、何かの日本一になりたいとずっと思っていました。
何かを選択する時も、「一番になれるかどうか」が基準になっていて、明らかに自分よりできる人や、ライバルが多そうだったりする分野に関しては、なかなか興味を持てませんでした。自分だけというか、一番になれるマイナーな世界を見つけたいと思っていたのです。流行になった途端に辞めてしまうし、逆にみんなが嫌だと思うところに進んで飛び込むような性格でしたね。高校時代は弓道部にボート部と、この時もマイナー路線ばかり狙っていました。
――一番になれる場所を探していたのですね。
小野多美枝氏:
そういう場所は、なかなかすぐには見つかりませんでした。高校は商業科に進みましたが、商業科目自体には興味がなく、将来会社で働くイメージも持てませんでした。たまたま就職雑誌に載っていた「陶器の絵付け」という仕事があることを知り、「ここなら楽しいかも」と、当時通っていた高校の美術の先生のツテを頼って就職したのが、清水焼きの窯元でした。
途中結婚を経て、陶器の絵付け職人から陶器の販売員まで、あらゆるお仕事を経験しましたが、今のような形で個展を開いて、自分の作品を作るような作家活動を考えていたわけではありませんでした。
ただ、陶器に携わる中で、少しずつ、この世界への興味は深まっていきました。もっと陶器のことを学びたいと、京都府陶工職業訓練校(現:京都府立陶工高等技術専門校) の図案科にも進みました。私は結婚してからも、常になにかしら仕事して、子どもが生まれたあとも、どんな形であれずっと陶器に携わりたいという決心だけは持っていましたね。