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待ったなし、の駒づくり人生

今回のお相手

将棋駒の生産地として名高い山形県天童市で、駒師、二代目光匠として将棋駒の制作を手がける佐藤稔さん。佐藤さんが営まれている天童佐藤敬商店は、NHK杯の将棋駒制作でも知られ、往年のファンからネットを通じて訪ねてくる若手まで、多くの人々に愛されています。この世界に入って50年近く、幾多の困難を乗越え奥様と二人三脚で取り組んできた歩みと、駒づくりへの想いを伺ってきました。

作品一覧

光匠作盛揚駒書体王義之書

光匠作彫埋書体初代光匠書一字彫

光匠作彫駒書体宗歩好本研き仕上げ


「開き直り思考」で活路を開く



佐藤稔氏:
私がこの世界に足を踏み入れることになったのは、父の希望からでした。私が小さい頃、父は市会議員を務めており、口癖は「人から悪口をされるようなことはするな」でした。体も声も大きくととても怖い存在でしたが、筋の通った父の姿勢は、嫌いではありませんでした。私には12歳上と10歳上の兄がいますが、一番上の兄は父の作った駒の販売を東京でやっていました。私は東京の大学に進んでおり、就職を考えていたのですが、父から継ぐように言われ、それならば仕方ないとこの世界に入りました。

そうしたスタートであったため、序盤はなかなか仕事に身が入りませんでした。27歳の時に結婚して、翌年には長男が生まれました。そこからようやく、真剣に仕事と向き合うようになりました。

父と私が作って、兄が東京で売る。そうして少しずつ販路を広げていきました。単に仕事をこなすだけでなく、常に新しい取り組みが必要でした。私も、本腰を入れてからは、父に習うだけでなく、機械彫りの型や切り方の工夫を重ね、思ったことは積極的に提案して、時にぶつかりながらも駒づくりを進めてきました。

木地を自前で用意できるようにしたのも、そうした新しい試みのひとつでした。駒が劇的に売れ、木地屋さんから材料を入手するのが困難な時代に、材料が無くてはそもそも続けていくことが出来ないと感じたのがきっかけでした。鋸の跡がついてしまうことを心配していた父に、鋸の跡がつかない切り方を提案、説得し、片引きの鉄を切る鋸を刃物加工して木工用にする方法で出来た特注品の切り出し機械を導入したりしました。

――今につながる布石は、そのころから。



佐藤稔氏:
父からは技術だけでなく、そうした先手を打つ生き方を教えてもらったように思います。「手に職を持て」という言葉も、売るだけでなく駒師として生きていくきっかけになりました。

駒づくりに携わってもうすぐ半世紀になりますが、そのあいだに色んな困難もありました。特に、病気での入院は、駒づくりどころか「人生詰め」になりそうな危機でしたが、「起こったことは仕方がない。できる状況でやっていこう」と、そういう心持ちでやって来ました。「前向き思考じゃなくて、開き直り思考だよ」とよく言われます。

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